阿含経と大柴燈護摩供について

桐山靖雄著『末世成仏本尊経講義』1986年5月刊--あとがき--より

幼少年の「いじめ」と「自殺」が、日に日に増加し、大きな社会問題と化しつつある。 わたくしは、数年前から、こういう事態の起きることを予告し、警告してきた。 著書に、講演に、法話に、わたくしはこういう表現で、ひたすら世に訴えてきた。

『ここ十数年のあいだに、「横変死の因縁」を持つひとびとが異常にふえてきている。わたくしは、三十数年間、ひとの因縁を透視してきた。二十数年前は、百人の人の因縁を視て、二人か、多くて三人のひとが「横変死の因縁」を持っていた。十数年前からじりじりとふえてきて、数年前になると、七、八人から、多いときは十二、三人までになってきた。その後もじりじりとふえつづけている。不気味である。これが、十五人を越え、二十人に達したとき、この社会が崩壊するか、壊滅するような大量死が起きるだろう。ことにわたくしが気になるのは、こどもたちの間に、この「横変死の因縁」が増加しつつあることである。それと「刑獄の因縁」の増加である。こどもたちの間にひろがるこの「横変死の因縁」と「刑獄の因縁」の増加は、ごく近い未来社会に、途方もない事態の起きることを暗示しているのではないのか。』

と。「いじめ」は、刑獄の因縁につながるものであり、横変死の因縁は、ズバリ、自殺をあらわすものである。 幼少期において他を残酷にいじめる精神構造には、成長したのち犯罪に走る潜在意識がある。(いや、成長にいたるまでもなく、いじめ殺してしまったという事件が、いくつも発生している) わたくしの予告と警告にたいし、わたくしを批判中傷するひとたちは、 「桐山はひとをおどかして信者をふやそうとしている」 と誹謗した。自分の低劣な心情をもとにした言葉と、わたくしは気にもとめなかったが、事実はわたくしの予告のとおりになりつつある。 元来、幼いものたちは、ひとをいたわり、愛する心情のつよいものである。また、こどもは自殺しないというのが、児童心理学の定説であった。 それが、どうしてこういうことになったのか。 科学と技術の進歩のみをひたすら目ざしてきたこの社会が、行きづまってしまったからである。 つい最近の報道で、アメリカの若ものたちに、君たちの世代に核戦争が起きると思うか、という質問に、起きると思う、という答えが、じつに、65%に達したという。 幼きものたちは、自分たちの世代に未来のないことを本能的にさとって、幼いいのちをみずから絶つか、あるいは狂暴になるか、しているのである。かれらは理くつでなく、本能で感じているのである。 これは、われわれ大人の責任ではないのか。 しかし、事ここに至ったいま、責任問題を云々(うんぬん)して烽ヘじまらない。 われわれの第一になすべきことは、若ものたちに、未来への希望をあたえることである。 第二に、現在のような苛烈な環境にたえられなくなりつつある若ものたちの脆弱(ぜいじゃく)化した心身を、つよくたくましきものに錬磨することである。 この二つをなしとげることが、現代宗教に課せられた課題ではなかろうか。 いや、これは宗教以前の問題なのだが、いま、これをなし得るのは、宗教しかないとわたくしは思うのだ。 すくなくとも、阿含宗はこれを目ざしている。

 

その阿含宗が、毎年二月、京都の総本山建立地において、山嶽密教の大柴燈護摩供(だいさいとうごまく)を修することに、疑問を投げかけてくるひとびとがいる。主として、仏教学者である。「阿含経のどこに、大柴燈護摩の修法があるか、その典拠を示せ」 というのが、その主張である。おわかりにならないのかな、と思う。阿含経にしるされた釈尊の成仏法を修行するためには、強健な意志と体力を必要とする。(これは釈尊の成仏法のみとは限るまい。健全な社会生活をするためには、不可欠な要素である) また、現代の、脆弱化した若ものたちに最も必要なものこそ、強健な意志と体力ではないのか。これは、釈尊の成仏法を修行する、しない以前の問題である。

 

まして、成仏法を修行するためには、なによりも、強健な体力と意志が必要だ。 じっさいに、若きゴータマは、国中にならぶ者なき武術とスポーツの達人であった。そしてかれのすぐれた弟子たちの多くは、貴族や富豪の子弟で、教育はもちろん、スポーツ、武術を身につけたエリートたちだったのである。そのかれらにして、はじめて、釈尊の成仏法の修行がなし得たのである。 いまの若ものたちを、どう鍛錬すべきか。 それには、野を駈け、山に伏して、自然の中に心身を鍛錬する山嶽密教の、山伏修行こそ最もふさわしいものとわたくしは考えたのだ。そしてなによりも重要なことは、あの厳寒の東山山頂で、白い息を吐きながら一心に祈る数十万の大衆、そして結界の中で火の粉と水を浴びながら一心に法を修する山伏すがたの若ものたち、ここに宗教の原点があるのである。そこには阿含経も大日経も法華経もない。炎とともにふきあがる熱い祈りの渦がある。これが「宗教」なのだ。 アメリカには、ボーイ・スカウトという組織がある。これは、体育と徳育を兼ねたすぐれた若もの錬成の組織であると思う。 かって、日本にも、これに似た制度、組織があった。それが、山伏である。 明治政府のうち出した「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」以前の山伏信仰は、在家信仰の修行として、じつに盛大なものがあった。関西において、吉野大峰の毎年の登山修行者は、年間、数百万人を越えたのである。これによってじつに多くの若ものたちが、心身の鍛錬と霊性の陶冶(とうや)に大いなる実をあげたのである。 このごろ、企業が、新入社員に坐禅をやらせるのが流行のようである。それも結構だが、わたくしは、年に十日くらい、大自然の山野にほうり出して、野を駈け、山に伏す山伏修行をやらせたほうが、さらに益するのではないかと思っている。 阿含経に書いてないものを阿含宗がやるのはけしからんなどというのは、いかにも学者らしい発想で、そういうことでは、多様化し、さらに多様化しつつある現代社会に、とり残されてしまうのではなかろうか。

ともあれ、物情騒然(ぶつじょうそうぜん)たる世相である。 人類がこれまで目ざしてきた科学と技術が、つぎつぎと破綻(はたん)を示している。 インドのポパールで化学工場爆発(1984年12月)。 日航ジャンボ機墜落(1985年8月)。 そして今年1月、アメリカのスペースシャトル・チャレンジャーの爆発。 さらに、昨日、ソ連の原子力発電所の大事故を聞いた。 あいつぐ巨大技術の破局である。 宗教は、これまで人類がおかしてきたミスのツケを、はたして精算し得るのであろうか。

一九八六年四月末日
著者しるす

 
 

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