奇跡を起こす「聖物(せいもつ)」
架空の仏、空想上の仏、概念上の仏をつくり出してまつる日本の仏教が、すべて偶像崇拝の低級な信仰だと、キリスト教からいわれても、返すことばはないのである。
では、偶像をまつる仏教が、なぜ低劣視されるのか? 二つの理由があげられる。
その1
偶像の仏とは実在しない仏の像であり、実在しない仏の像は「虚像(きょぞう)」である。虚像の仏は、要するに、似(に)せものの仏だ。真実の仏に似せた虚(うそ)の仏の説いた経典が、真実の仏の教説といえようか?それは仏が説いたものではなく、仏をよそおった人間が書いたものである。仏陀ではない。
虚像の、にせものの仏の像をまつり、にせものの仏の経典を読む。これでは、合理性を重んずる外国の宗教に軽蔑されてもしようがない。
その2
実在しない虚像の仏をおがんでなにになるのか。
キリスト教は、実在したキリストの遺(のこ)した物を、「聖物(せいもつ)」とよんで最も尊崇する。他の聖者たちをも、遺体の一部を「聖物」としてまつる。たとえば、有名な聖者フランシスコ・ザビエルは、右のひじが、聖物としてイエズス会の聖堂にまつられている。
いうならば、この聖ザビエルの右のひじがこのイエズス会の寺院の「本尊」なのである。そしてキリストの「聖物」がキリスト教の「総本尊」ということになる。
なぜ、「聖物」が尊ばれるのか?
それは、奇蹟をあらわすからである。
たとえば、ローマ法王庁には、「福者(ふくしゃ)」や「聖人(せいじん)」と呼ぶ尊称がある。
福者というのは、キリストの信仰のために受難、殉教したり、生前に特別の聖性を示し、死後に奇蹟をもたらしたりした聖職者にあたえられる。これには昔からきびしい選考基準があり、ローマ法王が慎重かつ綿密(めんみつ)に調査し、審議したのちに決定する。その調査が「列福調査(れっぷくちょうさ)」といわれるものだ。
そしてさらにそうした福者の中から、ふつう長い年月をかけてなお調査をおこない、厳選されるのが「聖人」である。
聖人に列するための調査が「列聖調査」で、いうまでもなく「列福調査」よりもはるかに厳格をきわめる。
聖人に列せられるためには、その死亡した肉体、本人が所有していた物から三回以上、奇蹟が起こらなければならないとされている。聖物はこのように、かずかずの奇蹟を現すから尊ばれるのである。
では、聖物がなぜ奇蹟を起こすのか?
霊界に在(あ)る聖者のみ霊(たま)が、われわれの祈りに応(こた)えて降臨するとき、その聖者に最も縁(ゆかり)の深い物に降(くだ)る。あるいは、その物が聖者のみ霊(たま)を呼ぶ。こうして、聖者の降臨による奇蹟が起きるのである。
聖物は、聖者の肉体(遺体、遺骨)が、一番尊ばれる。これが最も奇蹟を起こすからである。これがなければ、平生、身につけていたものがこれに準ずる。架空の仏や空想の仏をおがんでなにが起きよう? 実在の聖者、実在の仏であるからこそ奇蹟が起きる。ウソの仏をおがんでなにが起きるか。
未開人が、虚像、偶像をおがんで一心に奇蹟を願っている。あわれむべきすがたを、キリスト教の人たちは、日本仏教の信者たちの上に見るのであろう。
仏教において、キリスト教における「聖物」を求めるならば、それはもちろん、仏陀の御聖骨しかない。
すなわち、真正仏舎利こそが、唯一の、仏陀の聖物なのである。だから、仏教教団であるからには、「本尊」として、真正仏舎利をおまつりし、これを尊崇(そんすう)するのがほんとうなのである。これこそが、「真実の仏」なのだ。
さきの章で、わたくしは、「法」だけでは十分でない。「仏」がなければダメだといった。仏と法がそろって、ほんとうの仏法となるのだといった。
仏陀の御聖物である真正仏舎利が、本尊として、修行者、信者に力をあたえ、御加護くださってはじめて、法が成就するのである。仏陀の加護なくして、自力だけで成仏法を成就することなど、不可能である。わたくしの完全解脱も、本尊の加護があってこそ、成就したのである。
虚像(ウソ)の仏が、こういう奇瑞(きずい)をあらわす道理がない。奇瑞をあらわす、と感情的に盲信するだけである。だから、キリスト教、イスラム教は、虚像(きょぞう)をおがむ日本の仏教を、低劣な偶像崇拝の宗教と軽蔑(けいべつ)するのである。
当然であろう。
