真実の仏と偶像の仏 —『守護霊が持てる冥徳供養』より—
日本の大乗仏教は、経典の優劣によって、その経典に説かれている仏の位置づけをする。しかし、これは間違いであって、もっと根本的な問題があるのである。
つまり、真実の仏と、ウソの仏があるのである。
そういうと、すぐに、こう反問されるかも知れない。
「おかしいですね。仏に真実の仏とウソの仏があるんですか? 仏さまにウソの仏なんてあるはずないでしょう」
そういわれるかも知れない。
そうではないのである。
この世の中には、ウソの仏と真実の仏があるのである。
「嘘(うつ)ソウ !」
とあなたはいうか?
ウソの仏といってオーバーならば、「実在しない仏」「架空の仏」「空想上の仏」「概念上の仏」といい直してもよい。
日本の仏教はほとんど大乗仏教で、大乗仏教のまつる仏は、みな、架空の仏であり、空想上、概念上の仏である。
それがどういうことになるか、わかりやすい例をあげよう。
先年、某伝統仏教教団の総本山で、世界宗教の集まりが盛大にひらかれた。
阿含宗は参加していなかった。日本の代表的な教団が多く参加していた。
会期半ば、その総本山の本堂で、参加者全員、世界平和を祈ることになっていた。集まりの趣旨にかなった結構なことで、世界各地から参加した各教団の代表者は、喜んで参加するものと思われた。
ところが、これが拒否されたのである。
どうしてか?
キリスト教と、イスラム教の代表者からクレームがつけられたのだ。
「総本堂にまつられている薬師如来は、偶像である。われわれは、教義の上から、偶像をまつった場所で、礼拝することはできない」
そうことわられたのである。
そこで、やむを得ず、世界平和の祈りは、野外に急設された舞台の上でおこなわれたのである。
わたくしは、これを聞いたとき、心から残念に思った。日本の仏教のために、心から口惜しく思った。
むかしから、キリスト教が日本の仏教を批判するとき、まっさきに突いてくるのが、このことであった。
つまり、日本の仏教は、「偶像崇拝」の低劣な宗教である、という点である。たしかに、そういわれても止むを得ない弱点が、日本の仏教にある。本尊としてまつるところの、大日如来、阿弥陀如来、薬師如来、その他、すべて架空の仏の像である。みな、実在しない仏の像だ。故に、キリスト教は、これを、未開人の持つ宗教とおなじ偶像崇拝の低劣な信仰と断定する。
キリスト教は、実在したイエス・キリストを、神の子としてまつり、礼拝する。
イスラム教もその通りである。
キリスト教もイスラム教も、世界平和のためには、日本の仏教者と同じテーブルに着いて語り合うが、宗教上では、日本仏教を、偶像崇拝の低い宗教と軽蔑しているのである。
わたくしは、このことが残念でたまらないのである。
日本仏教には、たしかに、かれらからみて、偶像崇拝宗教とみられる一面がある。しかし、日本の仏教全体がそうだと極(き)めつけられてしまうのは困るのである。
そうでない教団が、すくなくとも一つあるからだ。
阿含宗である。
阿含宗は、偶像ではない真実の仏をおまつりしている。かず多くある日本仏教教団の中で、たった一つだが、偶像ではない実在の仏を本尊としておまつりしている教団があるのである。
その阿含宗として、日本の仏教すべてが、偶像崇拝の低級信仰と断定されてしまうのは、心から残念であり、心外この上ないことなのである。
仏陀の説かれた仏教には、偶像崇拝的な要素は全くない。むしろ、そういったものを極力、排除しているのである。それを、キリスト教に軽蔑されるような宗教に変えてしまったのは、大乗仏教なのである。そして、日本の仏教のほとんどが、大乗仏教なのだ。
わたくしは、日本仏教のこういうあやまちを、一日も早くただして、本当の仏教にたち返ってもらいたいと、心から望み、それを世に訴えているのである。
しかし、日本の仏教信者たちは、ほとんど、こういうことを知らないのである。
あなたにしても、この本を読むまでは、これを知らなかったのではなかろうか?
